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2017年05月01日18:30

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映画「母〜小林多喜二の母の物語」

1933年、築地警察署で拷問の末に殺された、プロレタリア作家・小林多喜二。
彼を育て、多喜二の死後も息子の意志を信じて一途に生きた、母・セキの生涯を描く。

秋田の貧しい村に生まれたセキ。
同級生の仲のいい女の子は、幾人も身売りされて村を去る。
セキも、向学心があったのに学校に行かせてもらえなかった。

セキ(寺島しのぶ)はやがて小林末松(渡辺いっけい)と結婚し、北海道の小樽へ渡る。多くの子どもに恵まれ、雑貨店を営んでいた。
ある日、小樽の港で働くケガだらけの男が、店に逃げ込んできた。
劣悪な環境での労働者たちの中には脱走するものも多かったのだ。
末松はとっさに彼を押し入れにかくまう。
脱走者を探しに来たヤクザまがいの男たちにセキは「あ、あっちのほうに走っていった」とあらぬ方向を指さし、ケガをした男を逃がしてやるのだった。

そんな両親を見て育った多喜二(塩谷瞬)は、10代の頃から小説を書き始めた。
勉強のできた多喜二は小樽高商へ進学、さらに、地元の有力企業の北海道拓殖銀行に就職する。

バイオリンのレッスンを受けたい弟のために、ポンと初月給からバイオリンをプレゼントする多喜二。
しかし、それを見届けたように末松が急逝。
銀行員は高給取りで、一生の安泰が約束されていたにもかかわらず、多喜二は反戦の小説を書き続けたために特高の尾行がつき、銀行に辞表を出す。

遊郭街で働くタミ(趣里)のけなげな姿に、多喜二は彼女を救い出し、一緒になろうと決意。
セキはタミの境遇を偏見を持たず、優しく受け入れるのだった。

文学活動のため上京した多喜二だが、治安維持法下で常に警察に追われ、セキはずっと会えずにいた。
ある日連絡が届き、セキはひそかに中野の喫茶店で多喜二と再会。
彼女にとっては、優しく母思いの息子のままだった。

しかし、1933年2月20日、特高警察に捕らえられた多喜二は刑事(佐野史郎)の尋問を受け、「お前が書いた『1928年3月15日』に警察の拷問の場面があるなあ。それと同じことをしてやろう」と言われ、築地警察署で残忍な拷問を受けた末に絶命。

セキが息子の死を知ったのは、新聞記事を見せられてだった。
多喜二の体の傷を見て、あまりの仕打ちに衝撃を受けるセキ。
しかし、時代はますます、社会主義思想や労働運動への弾圧がひどくなっていく。

戦後、セキはキリスト教会に通い、牧師(山口馬木也)と語り合いながら、民衆のために死んだ息子と、はりつけにされたイエス・キリストを重ね合わせるー。


友人からこの映画の上映を教えてもらって見に行ってきた。
映画自体は、地味なテーマだし、物語の見せ方にもつたないところが多いのだけど、なんといっても寺島しのぶの演技が、圧倒的な存在感があって、それがともすれば単調になりそうな映像を輝かせている。
セキは生涯、秋田弁が抜けなかった。
寺島しのぶの朴訥な秋田弁のセリフを耳にすると、息子を国家権力に殺された母親の無念と、息子への愛情の深さが強く、観る者に訴えてくる。

セキと末松が脱走者をかくまうシーンには、先般見たドキュメンタリー映画「抗い」に登場する、林えいだいさんの父君のエピソードが思い出される・
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1959782536&owner_id=5348548


さて、小林多喜二、というと国語の授業でも文学史の中に出てくるが、プロレタリア文学を代表する作家、というぐらいの認識しかわたしにはなかったと思う。
それが数年前、星野博美氏の「コンニャク屋漂流記」を読んでいた時、彼女の祖父が千葉・外房の海から東京に移り住んで暮らしていた街に、潜伏中の小林多喜二が同じころに住んでいた、という記述を見つけた。
さらに多喜二が1903年生まれ、とあるのを見て驚く。
わたしの父方の祖父と同い年ではないか!

不思議なことにそう思うと、みょうに多喜二が身近に思えてしまう。
祖父はインテリの多喜二とは違い、学もなく、一生を肉体労働で暮らした男だったが、同い年だと知ると、多喜二の歩みと祖父の一生をつい重ね合わせてしまう。
多喜二の亡くなった年には、祖父にはもう3人の子供がいた(わたしの父は1932年9月生まれである)。
もちろん祖父は、多喜二の小説など読んだことはなかったろうが。
(4月27日、テアトル梅田)
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