mixiユーザー(id:5348548)

2017年05月02日23:19

3403 view

山本宣治の資料館を訪ねて

山本宣治(やまもとせんじ)、という名前は、戦前の衆議院議員ながら、反戦活動をしていて右翼に暗殺された人物、というぐらいしか知らなかった。

その名前を意識するようになったのは、自分が長らく読み解きににかかわっている、韓国の詩人・尹東柱(ユン・ドンジュ)との不思議な因縁から。
5月1日のmixi日記にも書いたように、彼が生前最後の写真に収まった宇治川の吊り橋から、山本宣治が育った「花やしき」がほど近いのである。

「朝鮮の独立運動を企てた」という一方的な嫌疑をかけられ、治安維持法違反で逮捕された文学青年の尹東柱、片や治安維持法に反対して、国家の放った右翼に殺された山本宣治。
山本宣治は、京都の朝鮮人学生たちの団体・「在京朝鮮留学生学友会」が1926年に創刊した『学潮』』に、「或画の話」を寄稿している。これは旧約聖書イザヤ17,35章を引用し、植民地下の朝鮮人への連帯を示した文章である。
尹東柱もクリスチャンだったし、キリスト教に基づく詩作が多数ある。
わたしはふたりの魂に導かれるがごとく、宇治川のほとりにやってきたのだ。

さて、山本宣治は知れば知るほど、ユニークな人物だ。
1889年京都生まれ、両親は花かんざしの店を営んでいたが、この商売は繁盛したようで、いくつも店を広げ、病弱だった宣治の養育のために宇治川河畔に別荘を建てた。これがのちの料亭旅館の「花やしき浮舟園」となる。
17歳の頃、大隈重信邸に園芸見習いに住み込み、その後園芸研究のためカナダに渡る。
ここで彼は「自由と民主主義」の理念を学んだという。
学生結婚し、旧制三高を経て、32歳で東京帝大卒業。専攻は動物学。
同志社や京都帝大で教鞭を執った。

彼は性教育のパイオニアとも言われ、産児調整運動もおこなっていた。
また、若い頃の理念から、労働者運動に参画、そのため、大学を追われることに。
その間、父の死去により「花やしき」の2代目となるが、1928年、第1回普通選挙に京都2区から労農党の候補として出馬し、当選。
治安維持法の改悪や、社会主義運動への弾圧への反対を訴えていたが、
1929年、東京・神田で、右翼団体「七生義団」の男に刺殺された。


宇治平等院の脇を通り過ぎてまもなく、「花やしき浮舟園」が見えてくる。大きな建物だ。
彼の資料館がある、と聞いていたが、何も看板らしいものもない。
タブレット端末で調べると、どうも、希望者が来たときだけ開けているらしい。
そのため、ホテルのフロントを訪い、その旨を告げてると、受付の女性は
「わたしのあとについてきてくださいね」と歩き出した。
ホテルの向かい側には、古めかしい2階建ての日本家屋が見える。
庭を通り抜け、その奥まったところに蔵があった。

女性の手には、最近めったにお目にかかれないような、棒状の長い鍵。
そういえば、わたしの実家の蔵の鍵もこんなのだった。
がちゃがちゃとようやく鍵が開けられた。
この蔵が、山本宣治の資料館となっていたのだ。

毎日開館しているわけではないので、中はちょっと埃っぽい。
スペースはそんなに広くないが、古色蒼然たる、山本宣治が集めたさまざまな資料から、
書籍、遺品、デスマスク、直筆の書簡、彼の生涯をまとめたパネルなどがぎっしりと並ぶ。

来館者の記帳ノートがあったのでめくってみると、わたしの前の来館者の日付は4月20日だった。1週間前だ。
ポツポツではあるが、訪ねてくる人がおり、けっこう遠方からも見られる。

国会議員が暗殺される、というのは大事件であるはずなのに、これが現在、余り知られていないのは、山本宣治が労農党の議員だったこと、そして事実上、彼が国家権力によって殺されたからかもしれない。
とはいえ、命日の3月5日には「山宣墓前祭」が開催され、多くの人が彼の死を悼んでいるという。
山宣(やません)は彼の愛称である。


反体制的で、小作人・労働者の味方として活動を続けてきた山本宣治の姿が、「高級旅館」にはあまりにもそぐわない。
実際、ランチの最低価格が3,000円なんて、わたしのお財布からはとても出せない(^^;
宿泊したら、これも高そうだ。
こんな旅館の奥の蔵は、社会主義、労働運動、プロレタリア、反戦平和、といった対極のキーワードに満ちていた。

だがしかし、こういった左翼系の活動家には素封家が多い。
つまりはお金持ちのお坊ちゃん。
若い頃社会主義に傾倒していたという太宰治を思い出すし、父親が共産党の参議院議員だった米原万里さんの本によれば、米原家はたいへんな資産家で、父は実家の土地を共産党に寄付してしまったとか。
まあ、マルクスだのレーニンだの言ったって、ほんとうにその日暮らしで貧困に苦しんで働きづめならば、学校にも行けないし、そんな本を読むゆとりもないだろう。

そういえば山本宣治の、名前をちぢめた「山宣」という愛称は、やはり「徳田球一」を省略して「とっきゅう」と呼ばれた、共産党の書記長を思い出させる。

※画像は左から、ありし日の山本宣治の肖像、彼のモットーとした「唯生唯戦」、葬儀の模様を描いた絵画・「告別」(大月源二・画)
6 6

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2017年05月>
 123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
28293031