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2017年02月18日07:21

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満州・シベリア虜囚断章 その1

生きていくということは、このミクシィでの生活も含めて、ある瞬間には自分の人生が変わっていくということでもあると思います。

つい最近、縁がありまして、「平和の礎 シベリア強制抑留者が語り継ぐ労苦」という全21巻の資料の存在を教えられ、読み進めているところです。

スターリン指導下のソビエトロシアは壊滅の一歩手前にあったことを、私はこの記録から知りました。 そして、絶望的な状況で、生き抜いた、強靭な精神を持つ、様々な立場の人々の群像も同時に知りました。

この本もまた、私の人生を変えたもの、と言えると思います…

その中で、今日は、「福島県 橋本宗明」氏と記名のある「シベリア抑留の思い出」という記録を以下のように、自分の備忘録にし、皆様のご照覧にも供しいたします。

これは、過ぎ去った過去の記録のように見えるかもしれませんが、私の受け留め方は違います。 これは、今の記録であり、これから起こることの記録であります。


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シベリア抑留の思い出
                     福島県 橋本宗明


私はシベリアに三年ぐらいいたけれども、そのこともあまり多く語ったことはないと記憶しております。高等学校で二十年間生徒の前でいろいろ話をしてきましたけれども、その間にもあまり多くを触れたことはなかった、こういうふうに思います。したがいまして、私がまとめて体験をご紹介するのは全くの初めてでございます。

いろんな意味で、私の人生、物の考え方に多くのことを残してくれたのは、間違いなく抑留体験でございます。まともにそのことに触れることに、ある意味で心の中で恐れを感じていたということもあろうかと思います。

一応私の経歴をやや詳しく申し上げてみますが、私は現役の兵隊としては一番最後の初年兵でございます。大正十四(一九二五)年生まれ。十五年生れの人はほとんど現役の召集まではされていない、私どもが一番最後であります。

私は、昭和二十(一九四五)年の三月末付けで旧制第二高等学校文科というのを卒業させていただきました。これも戦前の最後の臨時措置で、急に繰り上げ召集でありますから、普通にいけば、もう一年あるはずだったわけであります。そうすると、戦争に行くことは免れたわけでありますが、その時代でありますから、特に文科系が繰り上げ召集をされました。理科系は残されたんです。文科系が現役で召集された。

。旧制高等学校は文科と理科の二つに分かれております。文科系というのは、そこを卒業すると、その当時の帝国大学の文学部か経済学部か法学部へ進む。理科系は工学部、農学部、医学部、お医者さんです、そういう方に進んだわけであります。私どもは昭和二十年の三月の末に、本来は希望者を集めて入学試験をやって、文科系に進むのでありますけれども、戦争が苛烈になってまいりまして、特に昭和二十年の三月十日などは大空襲で東京が焼野原になった。こういう事態でありますから、文学部希望の願書を出して、その上で内申書によって書類選考で各大学に合否が分けられたんです。

大体が旧制高等学校を出た者は、優先的にどこかには入れるようになっていたんです。第十希望ぐらいまで書かされて、成績の順によって割り振られた。こういう選考の仕方であります。私は幸いにして第一希望のその当時の東京帝国大学の文学部の国文学科を希望していて、そこに合格できた。四月一日付けで入学することになっていた。

ところが、三月の二十四日に召集令状が参りまして、三月二十七日に仙台の東部第二十七部隊、予備部隊であります。そこに入隊いたしました。その当時はいわゆる二等兵であります。星一つ。二等兵で現役入隊いたしまして、それから、五月初めに当時の朝鮮の羅南の方に転属命令で、午前六時に仙台駅を出発して、車が用意してあって、中にだれが乗っているか分からないようにさせられて、そして博多を経由して、釜山の港に上陸して、一路、今の北朝鮮の羅南に転属になりました。

羅南に着いたのは五月で、五月から七月ころまで。鮮満国境の豆満江という川が流れておりまして、それが国境であります。豆満江の川近くの陣地構築。気のきいた機械などさっぱりないので、スコップとツルハシとモッコで山を掘って陣地構築という生活をしておりました。それが二カ月くらい続きました。

それで八月十五日を迎えて、ソ連軍が満州を経由して、北朝鮮の方まで進軍を始めて、四キロぐらい手前までソ連軍が来たときに終戦を迎えた。そこで武器を返納して、満州の間島というところに集結させられた。北朝鮮で武器返納という命令で、二等兵は馬と大砲しか持ってません。小銃、鉄砲は持っていませんので、馬を放して、満州の間島に移らされた。その地に、一カ月ぐらい収容されておりました。それから、東北へしばらく行軍させられて、汽車に乗せられた。それも貨物列車のような列車でした。二段に仕切ってあって、二階と下と分かれている貨車に乗せられて三日くらい動いていました。とまったり、進んだり。

その間、ロシアの警戒兵がついて、「ウラジオストック・東京ダモイ」ということで、ウラジオストックを通って、東京、日本に返すんだという宣伝をうのみにして、大体はみんなおとなしく列車の進行に任せておった。

着いたところが、アムール川の流域のコムソモリスクという町でありました。コムソモリスクという町に着いて、そこの収容所に収容されました。コムソモリスクというのは、アムール川の長い流れの中のほぼ中央にあります。

そこの第五収容所というところに収容されました。千二百人ぐらいいたかと思います。いろんな使役に毎日駆り出されました。そういう生活でありました。

                                                      (つづく

                       ***********
「平和の礎 シベリア強制抑留者が語り継ぐ労苦 17」 335〜341頁の 335〜337頁部分。

発行 平成19年3月24日
東京都新宿区西新宿2丁目6番1号 独立行政法人 平和祈念事業事業特別基金
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