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2017年02月22日00:34

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【平安京妄想説】東洞院大路との大路名は摂関期まで無かった

今上天皇 退位後は京都にお戻りいただこうとの提案も
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=125&from=diary&id=4442153
なんてmixiニュースがあったが、天皇退位後の住まいを普通は「院」と呼ぶ。

所謂歴史用語の院政の語源なのだが、院以外にも仙洞御所との呼び方もある。
そして「院」と「仙洞御所」の2つを併せた「洞院」という言葉も同じように天皇退位後の住まいを意味する。

ここで京都人なら誰でも思い出す「東洞院」と「西洞院」という通り名が思い浮かぶ。東洞院通りと西洞院通りは【平安京開設時の東(西)洞院大路】と御池通りの辻標に表記されている。
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でも名前からすると、その大路沿いに「院」又は「仙洞御所」があった大路の西と東と読み取れる。でも平安京の開設時には双方の大路には「院」は無かった。
もちろん双方の大路沿いに後院は多く設けられたが代表的なものとしては西洞院は閑院は院政期であるから亭子院 であろう。東洞院は花山院か。どちらも亭子院なら九世紀、花山院なら十世紀に作られ平安京開設時には影カタチは無かった。

だから東(西)洞院大路という大路名は平安遷都どころか摂関期まで無かった可能性は高い。
まぁ具足小路が訛って糞小路となり後冷泉天皇の宣旨で錦小路に改称したとのことからも摂関期ぐらいに平安京の大路名・小路名が定着してきたのかもしれない。一条大路…九条大路もその頃に呼ばれ始めたので一条から九条の言葉は条坊制として土地プロックを指し示す言葉であった可能性も高い。
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