mixiユーザー(id:2145604)

2012年12月07日09:56

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なぜ70年代は少女まんがだったのか

》あの時代、「迷宮」は、何故少女まんが志向だったのでしょう?
なんてメールを先日頂いた。また、凄い難問を…(笑)
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『あの時代(70年代後半)は少女まんががまんがの可能性を求めた場合に一番ラジカルであったサブジャンルであったから』としか答えようの無い質問なのです。
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なんて返答を反射的に送ったがチトばかし単純化しすぎたようだ(^^;
そう、別に迷宮には青年まんが志向の高宮成河氏や少年まんが志向の式城京太郎氏もいたし、アニメ志向の高い人も何人もいた。また、それらのジャンルを語りかければ語り返せるだけの読書量を全員が持っていた。でも今の時点で振り返れば「迷宮」≒コミケ準備会/コミケ準備委は確かに少女まんが志向に見える。

『漫画新批評大系』の主筆であった亜庭じゅん氏が基本的に少女まんが志向であったことと、初期コミケの参加者の7〜8割が女性だった故に少女まんが志向に見えるのかも知れないが、マニアの中でもアクティブな人達は72年ぐらいには、既に少女まんがを読んでいた。


70年に亜庭と出合った時は『少女まんがを語れる男』というのはホントに珍しく【名古屋と京都だから、もう2度と遭うことはあるまい】と誤解したこともあり長時間に渡り話し込んだことを思い出す。だか僅か2年後の第1回漫画大会の合宿では男子部屋で僕がいた部屋【公式レポートに僕の本名でレポ記載あり】と『コミックマーケッサト創世記』によると霜月たかなか氏がいた部屋の少なくとも2室で少女まんが談義が行なわれていた。

つまりアクティブなまんがファンは少年まんがや青年まんがへの志向はある程度は保ちつつ少女まんがに目を向けはじめていた。それは24年組の活動と期を同じくしているので、単純に見れば原因を71年の「雪の子」から「11月のギムナジウム」に至る萩尾望都ショックによって増えたのかのように見えるが、そうでもなく「ときめき」を熱く語り「きみどり」や「よし子先生」をパロディと理解して語れる人達であったことは翌年の第2回漫画大会合宿での「男だけで語る少女まんがの会」の盛況ぶりと話題の内容が萩尾望都があまり触れられていなかったことからも判る。また『いちゃもん』から『迷宮』の経歴をもつT氏は忠津陽子FCを立ち上げていたし、漫画大会の実行委員長をやったS氏は一条ゆかりFCを立ち上げていた。

という訳で最初に言った『あの時代(70年代後半)は少女まんががまんがの可能性を求めた場合に一番ラジカルであったサブジャンルであったから』が正鵠なのだろう。そのラジカルさに惹かれてアクティブなまんがファン:当時の表現のマニア層が少女まんがを読み始めたのだろう。
それでナゼ、『少女まんががラジカルであった』のかは、当時も今も検証中の作業なので断定は出来ていない。

でも
1.少女まんがの主要テーマの1つに恋愛【人と人の闘争でなく触れ合い】を選んでしまっていた。
2.派生サブジャンル【現在のBL、レディスなど】がまだ生まれておらず混沌としていた。
この2つが怪しいのだがマダ断定はできていない。

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