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2012年08月20日10:18

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西堀川と御土居堀

この土曜日(18日)に京都地方気象台の庁舎拡大前の発掘調査の現地説明会へ行ってきた。工事まえには芝生が敷かれ百葉箱が置かれ開花宣言の桜などが植えられていた地は数mもあろうかという深い発掘地となっていた。
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この地は平安京西堀川小路に当たり、しかも秀吉造営の御土居西側部にも当たり双方の遺跡が発掘された複合遺跡となっていた。その平安京建都時の西堀川小路の路面から御土居の跡として外周に巡らされた犬走り迄の間は驚くような状態だった。

2〜3mにも及ぶ土砂の層…つまり御土居造営までの800年間に渡り何度も何度も繰り返された西堀川(紙屋川・天神川)の氾濫の痕跡だった。この夏にも上流−仏教大学の西−で床上浸水があったとき言及されたように紙屋川・天神川は「暴れ川」として有名で昭和初期には西院大洪水を起こし、それがきっかけとなって天神川放水路を設け御室川と合流させる工事を行なったことは古老に聞けば覚えておられる。

そんな暴れ川な紙屋川が平安・鎌倉・室町の期間はおとなしかったハズもなく幾度となく氾濫を繰り返したことが、この2〜3mの厚みのある土砂の層だった。

しかし、犬走りから現地表面までは1mもなく、上層に京都測候所を作った時の整地があることから御土居造営から現代までの400年間に洪水・氾濫はあったにせよ土砂を多量に積み重ねる大洪水は無かったことが見てとれた。

御土居は都市防衛の機能の他に洪水を防ぐ第2堤防的な役割も担っていたことが、鴨川についてよく言われている。同じ機能が西の暴れ川−紙屋川・天神川にもあったであろうことが、この土砂層の薄さで判る。


ここで、いつもの妄想が湧いてきた。御土居の袖については成立因について種々様々な説があるが、洪水を防ぐパイパスとして袖の堀が機能しており、増水時には堀に紙屋川の流れを導き決壊を防いでいた−というのはどうだろう?そして南へは西御土居の堀と天神川の2つの流路にすることでも増水に対応した。そしてその御土居堀が埋まってしまった後、西院大洪水は起きた。
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