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2012年04月18日19:55

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アンティキテラの歯車と14世紀日本社会大変革説

最近読んだ文庫本2冊
1.『アンティキテラ 古代ギリシアのコンピュータ』
ジョー・マーチャント 文春文庫
http://www.amazon.co.jp/dp/4163714308
2.『日本の歴史をよみなおす(全)』
網野善彦 ちくま学芸文庫
http://www.amazon.co.jp/dp/4480089292

どちらもセンスオブワンダーな世界。
知らなかった事柄が次々と展開され新しい世界が広がっていく…
でも素人ながら「チトまてよ!」という疑問がブツブツと湧いてくるのも両者共通(^^)

アンティキテラの歯車については、この本を読むまでは歯車機械式のホロスコープと認識していたが、日月食の予測までをしたとも解釈されている。
−此処でチトまてよ−
日月食を予測する歯車構成はそんな簡単なものだろうか?海上保安庁の太陽位置を計算する簡易式プログラムですらc言語で十数行の記述だった…
サロス周期なりエクセリグモス周期でも食が起こりうる年であっても、確実に食が観測される年ではない。逆に紀元前1世紀に作られた機械は何年前までの食を正しく指し示しただろうか疑問が湧く。

まぁ「食が起こるかも知れない年です」程度なら納得するし、作成者≠使用者であったらしいから【使用説明のギリシア語が書かれていた事から作成者が使用者と同一なら不要なものと判る】多くある表示機能の1つではあっただろう。でも過去の日月食の日時との検証は作成者はしたであろうが、使用者は可能だっただろうか?使用目的はホロスコープじゃないかな が正直な読後感。



『日本の歴史をよみなおす(全)』も凄い!
13世紀から14世紀に日本社会は劇的に変化したと説く。個人的に興味のある京都史については触れていないが思い当たるフシが多々ある。
足利先生が、平安京の庶民住居の戸口は大路小路に面して開かれておらず、一町は垣で囲われた単位で戸口は内側に向って開かれていた と言われていたが大路・小路に面した戸口のある京町屋の原形は「一遍上人聖絵」などを参考にすると13世紀末から14世紀初頭に現われたのではないかとされること。

又、四百八十寺とも八百八寺とも謳われている京都の寺々は遷都時には東寺と西寺しかなく、平安京の羅城域に寺や神社を建てることへの忌諱は道長や白河・後白河のような権力者でも法成寺、法勝寺、法住寺など全て平安京の外にあり、鎌倉初期の法金剛院まで続くが
妙顕寺 1334
妙心寺 1337
等持寺 1341
本圀寺 1345
妙覚寺 1483
と14世紀に相次いで平安京の中に社寺が建てられている。

そのことからも、社会的な変動は13世紀から14世紀に起こったとの説は腹に入ってくる。

でも後半部の日本社会が農業社会でしなく「百姓≠農民」という疑問を投げかけている。そこでは百姓が商人や海運や工業などを営む姿を描いている。でも、そうだとすると町人とされている人たちは一体なにをもって百姓ではなく町人であったのかが示されていない。最大の不満点でもある。

でも、この説を採用すると江戸時代の石高の合計は推定人口で割り返すと零細農民まで米食していたはず との説も石高の合計の米を収穫していたか との疑問も生じてくる…。
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