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2011年06月18日09:06

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平安京の地割り基準線

アスニー平安京創生館でボランティアをされている岡田さんから自書
フォト
『古代学から学んだこと−5』を頂いた。

僕のような妄想癖のある平安京好きとは違い地道な考古学成果や文研研究を引いた在野研究の書でした。でも中に妄想癖を刺激する一文が…

『平安京の地割り基準線』
専門誌「古代学研究」に査読の上、掲載された立派な論文なのだが
従来の平安京の地割基準は南北軸は船岡山からの南中線とされているが、東西軸は「山・川・古道で総合判断」とか、ややあいまいと批判され
将軍塚−松尾大社を結ぶラインが平安京の中央線としての仮説を提示されている。


ここで、僕の妄想が起動(笑)
土御門大路(北辺拡大説による旧一条大路)−九条大路の幾何学的中間は五条坊門小路に当たり巾4丈(約12m)の狭い道に過ぎない。
巾17丈の二条大路のようなメインストリートになぜしなかったか?の疑問が湧く。

と、いうことで久々の平安京妄想シリーズで、僕なりの仮説を…
フォトフォト
この2つの地図を見てもらえれば一目瞭然だろうか?
船岡山が南北軸の基準なら、残る京都3大丘陵−吉田山と双ヶ丘も平安京の設計に組み込まれたのではないだろうか、と考えてみた。

とのことで、昭和10年の5万分の1の図(パブリックドメインな地図)の吉田山と双ヶ丘の△印を青い線で結んでみた。次に船岡山の△印から南に垂線を引き、交点を探すと…
『千本一条』に当たった。朱雀大路こそないが(その延長線上にあるが)の一条大路(巾十丈)に面し平安宮の中央にあったとされる偉鑒門の推定位置にほぼ重なる。偉鑒門は「玄武門」「不開門(あかずのもん)」とも称したとされ、平安京の基点として、マズ此処を定めたとしてみても納得のいく場所ではなかろうか?



ただ、ここを基点とすると瀧浪貞子先生の「平安京拡大説」と相容れない。千本上長者町(北辺拡大説による旧一条大路)を交点とするには二百数十m程、南に下げる必要がある。
双ヶ丘で古墳が多数あったとされる一の岡と二の岡の中間鞍部と吉田神社を結べば… とも考えたが美しくない(笑)
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