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2011年01月22日10:19

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亜庭じゅん…

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71年の秋頃...関西ぐらこんの集会へアポロの常連仲間と参加したときに長髪の学生に出会った。少女まんがに興味がある様子だった。名古屋弁を話し、愛知だと言っていたので、もう遭うことはあるまいと(笑)盛んに当時の少女まんがについて噴かした記憶がある。名前も学校も聞かなかった。

その彼が後に書いたエッセイによると《…さかんにCOMの少女まんが特集の悪口をいっていた。決して間違った内容ではなかった。水野英子の「ファイヤー!」を駄作と断じ、ラブ・コメを称揚するのは、当時としては、画期的な斬新さをもっていた。だいたいが、少女まんがファンの男が少ない、というより殆どいない時代であった。共感しないと云えば嘘になる。−だが、この突然あらわれた「仲間」は、それでもなお、うすら寒い空気を、ぼくの背中に送り込んできたのだった。》なんて書いていた。

それが出会いだった…。2年後、留年が決まった僕に「お前ならハナシが会うかもしれない」と高宮成河が紹介してくれた京大生に会った。2年前に関西ぐらこん集会で出会った男だった。一乗寺の彼の下宿で思わぬ時間まで話し込んだのを覚えている。それ以降、急速に親しくなり毎日のように彼の下宿に昼過ぎに押しかけ夜更けまで、しばしば徹夜で話し込んだ。出町柳の深夜喫茶「プランタン」そこが閉まる早朝に開いている百万遍の「進々堂」のコースを辿ってもマダマダ話足りなかった。2年前に学校名を聞かなかったことを密かに悔やんでいた。

程なくして「あっぷるこあ」に彼と高宮の共著による「薄明の現在」の連載が始まった。彼−亜庭じゅんの文章はややペダンチックでレトリックな雰囲気をもつが雑談時の内容は諧謔性に溢れたアイロニィなものだった。−というか2人での会話は、そうなっていった。これが高宮を入れて3人になるとペダンチックになったから不思議なものだった。【高宮と僕との2人の時は凸凹漫才をやっていた(笑)】

そのアイロニィな視点を73年夏の第2回漫画大会の合宿で披露すると、その合宿は多いに盛り上がったものだった。「少女マンガを語る少年の会」が盛り上がったのも亜庭のお蔭とも言える。翌年の第3回大会での「少女マンガを語る少年の会」が亜庭も参加していながら低調だったのも事前討論(笑)を僕と亜庭が東京と京都と別れていたので、やってなかったからかも知れない(笑)

その低調だった漫画大会の半年後に高宮から「漫画ジャーナル」と「いちゃもん」を合流させる。と聞き…あとの流れは霜月氏の「コミックマーケット創世記」の方が詳しいかもしれない。

第4回漫画大会の「iさん問題」で揺れている時に合宿で、前年までスタッフをやっていた僕に「どっちに就くんだ」と詰問したイノケンの言葉に「糾弾する会」側を選んだのは亜庭がそちらにいたからかもしれない。


活字化をしようよ!今でも彼の文章は色褪せない。「コミックマーケット創世記」巻末で「マニア運動体論」を読み返した時、どれだけ「クウキが入った」か!「マニア運動体論」という理論武装をしていたからこそ、コミケは漫画大会を凌駕できたのだろ!
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