mixiユーザー(id:2145604)

2010年07月28日18:44

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1200年ではなく400年の都市

京都の地図を広げてみよう、一条通りと二条通りの間隔は他の二条から三条・三条から四条・四条から松原・松原から六条・…etc.と比べ2.5倍の間隔になっている。これは一条大路と二条大路の間に平安宮(大内裏)が位置していた為に間隔が広かったことに由来するのだが…

この一条通りと二条通りの間の通り名が全て平安京の大路小路の名とは異なることに気付いた。

一条通り …一条大路
中立売通り…正親町小路
上長者町通…土御門大路
下長者町通…鷹司小路
出水通り …近衛大路
下立売通り…勘解由小路
椹木町通り…中御門大路
丸太町通り…春日小路
竹屋町通り…大炊御門大路
夷川通り …冷泉小路
二条通り …二条大路

平安京左京の大路小路名は富小路のように1路ずれているものもあるが概ね残っているのに比べ残留率が非常に悪い。二条通り以南の五条通りでも△△坊門小路以外では万寿寺通り=樋口小路と松原通り=五条大路以外は残っている。

なぜだろう?

残った「通り名」や新たに名付けられた「通り名」を見てみると自然発生的というか庶民的感覚で付けられたものが殆どで例外は◆条通りと大宮通りだけのようにも思える−烏丸小路の由来はググる必要があるかな?−
「竹屋が軒を連ねていた」「立ち売が行なわれた」「洞院−仙洞御所があった」「壬生氏ゆかりの門−美福門−に連なる」「神泉苑の池がある」…etc.
つまり上から強制的に名付けられた「通り名」ではなく京童・町衆により呼び習わされてきた「通り名」や大路小路名だけが残ったのではなかろうか【この部分確証なし】

では、この一条通りと二条通りの間の通り名は、どうなるのだろう?「△△門に連なる道」「冷泉院があった小路」「小路に又は延長した大内裏内に◇◇庁があった」…etc.平安京の大路小路の名前も全て自然発生的で条坊制や嵯峨天皇命名の北辺坊・桃花坊・銅駝坊の薫りは見られません。その自然発生的な固有名詞地名を変更したからには強い意志が感じられます。しかも、変更した後の「通り名」も自然発生的な匂いがするからには「上から強制的に名付けられた」のではなく町衆・京童がみずから名付けたのではないだろうか?−秀吉により六条坊門が五条通りと変更されたのを除き…これは「秀吉より新たに掛けられた五条の橋へ通じる道」と捉えると例外ではなくなるが。

町衆・京童がみずから固有名詞を付け直したとしたら、その時期(天正の地割から徳川幕府の二条城建設まであたり)で新たな都市−御土居堀で囲まれ短冊型の町割りを持つ都市)を建設しているという気概をもっていたのではなかろうか?

とすると、我々は1200年の古都に住んでいるのではなく、平安京の故地に新たに興った町−京の400年の都市に住んでいるのかもしれない。
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