私は何かを見る。見ることは志向的(intentional)で、見る対象がなければ「見る」とはとても言えない。意識の志向性などとは比べようもないほどに視覚は志向的なのである。そもそも志向的でない感覚などあり得ないのである。情報を外部から得ることと志向
豊洲、有明には若い夫婦が多い。だから、幼児も多い。幼児と保育所は今話題の事柄だが、豊洲や有明には保育所がほとんどのタワーマンションの一階か横に設けられている。すると、写真にあるように多くの子供たちが公園で鉢合わせすることになる。昼間の公園
有明と台場ののぞみ橋の近くには巡視船がよく停泊している。この日は珍しく5隻も停泊中。よく見ると、様子の違う2隻が目に入る。巡視船ではない。何だと気になり、その答えを調べてみる。その答えがタイトルの名前。 気象庁は、地球温暖化の予測精度を上げ
「ぼんやり知る、曖昧に知る」などと言うものなら、科学の世界では非難されこそすれ賞賛など一切なく、軽蔑しか浴びせられないだろう(例外はFuzzy logicで、これをもとに「曖昧さ」の工学的研究が進んだ)。というのも、日常的な常識(folk knowledge)の
春休みは高校野球だけでなく、色んなスポーツ活動がスタートする。水泳はいつの間にか真冬でも大会が開かれ、年中行われるスポーツに変わった。そのためか、水泳場内部の気温は高い。一年中キュウリやトマトが食べられるように、スポーツと季節もいつの間に
予兆、吉兆、凶兆、正夢、逆夢といった言葉は未来や未知のものへの不安、期待を表していて、今でも現役の語彙です。「流れ星」、「笹の花」などはその具体的な指示対象で、凶兆のシンボルとなってきました。これら言葉は習慣や言い伝えとして使われ、常識と
27日は午後3時頃に青空が見え出した。この二日ほど青い空が見えず、青が恋しくなっていた。それで、外を眺めると、気温が低く、そのためか対岸の煙突群の煙がやけに目立つ。 煙は電気や製油のためで、共に生活には不可欠なのはよくわかるのだが、これほど
<ダーウィンの不安> このタイトルから多くの人は「ダーウィンが何に不安をもったのか、ダーウィンの不安の対象は何だったのか」と想像するのではないか。だから、「ダーウィンが自分でもよくわからない不安にいつも苛まれていた」という意味のタイトルだと
植え込みや街路樹は時代と共に変化する。ケヤキやイチョウ、ツツジは少なくなり、様々な新品種が街に増えてきた。 植え込みの植物も春を感じているのだろうが、そこにも春の雑草が元気に顔をのぞかせている。スギナは浅い地下に地下茎を伸ばしてよく繁茂す
(a very brief proof of the existence of tenses)(1)私たちは自由意志、不安、希望、夢をもつことを経験している。(2)それら心的な働きは無時制主義のもとではその存在を証明できない。(3)よって、時制主義が真である。 私たちのもつ常識には、心が
既に確定していて、新たに何かを望むことができなくなっている未来は、新たな望みの絶たれた文字通りの「絶望の未来」である。だが、一方でそれは極めて安定した、迷う必要のない「安全な未来」である。悪意に満ちた望みを絶つこと、それは確かに安全に繋が
久し振りに台場を散歩。街ができて既に20年を越え、落ち着いた印象が出てきた。港区、江東区、品川区が境を接し、この街並みができるまでに紆余曲折があった歴史が想い出される。ユリカモメを見ながら、火薬庫跡の他はほぼ何もない台場公園を歩き、レインボ
豊洲移転の安心、安全の話をきっかけに、芥川やキルケゴールまで持ち出して、不安や絶望について大騒ぎをしてきた。大山鳴動したように見えて、実は何もなしというのでは恥ずかしい限りで、法螺吹き哲学の謗りを免れない。そこで、これまでの議論をまとめな
「橋渡し」とは、文字通り橋を架けること、あるいは比喩的に、仲介することである。豊洲ランプと晴海ランプ間の一般道には、晴海大橋南詰信号が一つあるのみ。首都高速晴海線が1.2km延伸されても信号一つがなくなるだけで、盲腸のような線に思える。それで
深川から豊洲にかけて運河が縦横に走っている。その名前を挙げてみれば、東雲運河、東雲北運河、東雲東運河、砂町運河、汐見運河、辰巳運河、豊洲運河、晴海運河等々。かつての賑わいはなく、今はいたって静かでのどか。水もすっかり綺麗になり、運河沿いの
安全、安心の比較から、芥川龍之介の不安へと話が移り、今日はキルケゴール。芥川の短編を読んだ私が、暫くして読み出したのが『死に至る病』だった。本当のところ田舎の高校生にはまるで理解できない内容だった。キリスト教が何かも知らないのだから無理は
昨日、安全と安心の話をしたが、安心も不安も曖昧でぼんやりした未来に密接に関わっている。安全と危険がきちんと予測できる未来なら、未来への不安はなくなり、安心に満たされるだろうが、予測できないとなると不安が高まるだけで、安心は得られないだろう
何とも颯爽とした買い物姿。とはいえ、この頃の経験は記憶に残らない経験。「記憶にない経験がどうして本人の将来に影響を与えるのか」、その仕組みは不明。それでも、その記憶に残らない経験が将来を着実に決めていくのは疑うべくもない。そんな面倒な話よ
春分の日が過ぎ、いよいよ春。あちこちに花が目立つようになってきた。散歩すれば、道端、公園、空き地にそれぞれ誇らしげに咲いている。
(豊洲新市場) 東京では豊洲移転に関する話題が世間を賑わしているが、そこにはほとんどいつも「安全と安心」という言葉が対になって登場している。安心あるいは信頼は心理的、社会的な概念であるのに対し、安全は科学的な概念だと言われ、混同してはならな
目標を達成することは人生のあらゆる場面に登場します。自分の能力や現状を無視して目標を設定しても、達成できないばかりか、自信を喪失し、モチベーションを失うことになります。そのため、目標達成についての巧みな知恵は成程と思わせるような箇条書きと
サクラはわが国を代表する花。落葉高木で、大きいものは高さ20m、直径1mまでになり、天然記念物に指定されているものもあります。その代表的なものが、山桜の一群です。ヤマザクラあるいはシロヤマザクラはほとんど白に近い薄紅の花をつけ、北は本州の宮城
今回はより微妙な事柄を考えましょう。何が微妙かと言えば、常識や習慣と科学知識が区別がつかないほどに絡み合っていて、そのことは知恵と知識、常識と知識の間に明確な境界がないことを示しています。科学と常識は実は連続しているような部分をあちこちに
まずは次のような子供でもわかる説明を読んでみて下さい。その後で、この説明が科学と常識や習慣とのモザイクになっていて、決して首尾一貫した説明にはなっていないこと、そしてそれを普通に受け入れている私たちが習慣に流され、気に留めていないことを示
子供にこんな質問をされた時にどう答えたらいいのでしょうか。 花がさくにはつぼみが必要です。つぼみは冬より前にできあがっているにもかかわらず、花は咲きません。なぜなら、葉が栄養を独り占めし、花には回してくれないからです。ですから、葉が落ちる
今回の事例はどれも科学的な報告や説明というより、常識や習慣、通説や粗い観察が科学的な説明と混じり合ったものになっています。いずれも不自然な説明、描写とは思われず、至極普通に受け取られている内容です。科学的な要素とそうでないものがどのように
新市場のある豊洲から晴海大橋を歩いていく。結構な登りなのだが、左手に晴海埠頭が見えてくる。晴海は再開発が進み、タワーマンションや高層のオフィスビルが立ち並ぶ。さらに、中央清掃工場とその煙突は威風堂々といったところで、その左手にはつい最近ま
21世紀の今、知識と言えば科学的知識のことであり、その他の「知識」はかつてほどは重要視されなくなってきています。知恵がほとんど進歩しないのに対し、知識は日々進歩し、新しい情報が目白押しです。科学理論や科学技術は目まぐるしく変わりますが、宗教
3月も半ば近くなると、春の陽気に誘われて身体を動かしたくなる。人は習慣の産物のせいか、身体を動かすのさえ自由気ままにではなく、学習した規則やルールに従って動かしてしまう。スポーツはその悲しき代表で、大抵の競技やゲームはルールからなっている