会津藩主松平容保公が京都守護職に就任した後、会津藩士を率いて上洛し、本陣を置いたのが金戒光明寺です。境内には会津墓地への案内石碑があります。文殊塔 徳川二代将軍秀忠の供養ために建立された三重塔です。御本尊は文殊菩薩墓地からみる京都市内
岡崎神社からすぐ北にある金戒光明寺に向いましたhttps://goo.gl/maps/TW7ZPk9eqjQ2【宗派】浄土宗【御本尊】阿弥陀如来浄土宗七大本山の一つ承安5年(1175年)法然上人が比叡山の黒谷を下り、草庵を結ばれたのが浄土宗最初の寺院 のはじまりです 江戸
桓武天皇が平安京遷都に際し王城鎮護の為平安京の四方に建立された社の一つ、都の東に地鎮座したことから東天王社とも称します。『和漢三才図会』には東の守護は「岡崎」にあるとされていて、現在の大将軍神社と岡崎神社どちらがかっての神社かは不明です
【御祭神】桓武天皇(平安京を遷都した天皇) 孝明天皇(京都で過ごされた最後の天皇)【御由緒】当初は大内裏があった千本丸太町に朱雀門が位置するように計画されたが用地買収に失敗したため、ここ岡崎に平安遷都1100年を記念して、第50代桓武天皇
【御由緒】桓武天皇は平安遷都の際、王城鎮護のため都の四方に大将軍神社を祭りました。この大将軍神社はその内の一つで東方を守護しています【御祭神】素戔嗚尊 藤原兼家大将軍とは陰陽道でいう方位の吉凶を司る八神の1神であり、牛頭天王=素戔嗚尊
【御由緒】変わった名前の稲荷神社ですが、豊臣秀吉公が伏見桃山城の守護社として勧進した稲荷社で、秀吉公が御加護を受け満足したことから満足稲荷と名付けられた。元禄年間徳川綱吉が現在地に移し、法皇寺の鎮守社となった。(法皇寺は南禅寺に吸収され、現
https://goo.gl/maps/qJSbjNYLH2D2ここは刀匠三条小鍛冶宗近が信仰していた稲荷の祠堂といわれ、その邸宅は三条通りの南、粟田口にあったと伝わっています。宗近は信濃守三条粟田藤四郎と号し三条坊に住んだので三条小鍛冶の名がある。宗近は刀剣を鋳るのに稲
吉兵衛神社 三条神宮道辺りにあった青蓮院の御門の東に奉祀されていた土地の守り神です。太郎兵衛神社 青蓮院の御門の西に奉祀されていた土地の守り神。陶芸家故楠部彌弌氏(粟田神社の近くに工房があった)の信仰されていた社。稲荷さんみたいな神社ですね
【御由緒】藤原興世は勅使として感神院祇園社に国家安寧を祈願していた所、満願の夜枕元に大己貴神に「祇園の東北に清き処あり。其の地は牛頭天王(ゴズテンノウ)に縁ある地である。其処に我を祀れとの神意を受けこの地に社を建てられた。 当初は感神院新宮
粟田神社に向かう参道の脇に社があります。 御祭神 天目一箇神((あめのまひとつのかみ))・刀工三条小鍛冶宗近・粟田口藤四郎吉光天目一箇神は岩戸隠れの際に刀斧・鉄鐸を造ったり、大物主神を祀るときに作金者として料物を造ったとの伝承から、製目一箇
青蓮院門跡を参拝した後神宮道を北上し、粟田口へ行きましたhttps://goo.gl/maps/KDJhkwuRTVp 神宮道は名前の通り先に平安神宮があります!粟田口 古代豪族粟田氏の本拠で粟田郷と呼ばれていた。京の七口の一つで三条口とも言われますれ、刀工粟田口
知恩院を出て神宮通りを北上し青蓮院門跡へ向かいました。https://goo.gl/maps/VazwfMTvCf92【宗派】天台宗【御本尊】熾盛光仏頂京都五ヶ室門跡の一つ、天明の大火で内裏が焼失した折は仮御所が置かれたことから粟田御所とも言われ、青蓮院旧仮御所として国の
勢至堂の隣にある法然上人のご遺骨をご奉安する廟堂です。紫雲水 法然上人ご入滅の時、聖衆が来迎し紫雲が水面に現れ、芳香が漂ったという言い伝えが残っています。毎年5〜6月頃には天然記念物のモリアオガエルが産卵に訪れます御廟所から見る市内です
勢至堂から進むと墓地があります。 千姫(豊臣秀頼正室)の墓 尊信女王(東山天皇皇孫)歳で真如海院尊融尼の付弟になり、三時智恩院相続となり得度された。皇族の出身ながら洛中で托鉢を行う等、尼僧として生涯を尽くされた 濡髪大明神江戸時代、知恩院第
知恩院通りここから参拝するのが定番コースです 国宝の三門 今回知恩院に行った目的です。 狩野派によって書かれた襖絵は素晴らしかったです国宝の御影堂 平成の大修理中で31年まで修理中です。勢至堂 【御本尊】法然上人の本地身とされる
ようやく知恩院へ到達。鉄道唱歌東海道線編にも出てくる御寺です祇園清水・知恩院・吉田黒谷・真如堂ながれも清き水上(みなかみ)に君がよまもる加茂の宮♪【山号】華頂山【本尊】法然上人像・阿弥陀如来開基は浄土宗の開祖法然上人です^^法然が後
日本の仏教史に残る凄い方の史跡が集まっている所です仏教に過激派いたら戦争の原因になりそうです(笑) 浄土真宗の開祖 親鸞上人は弘長2年(1262年)に没し、文永9年(1272)に末娘の覚信尼がこの地に廟堂を建て, 遺骨を安置して御影堂と呼んだ
華頂通りから知恩院の黒門までにある史跡です 先求院(酒井忠次公御廟所) 酒井忠次は徳川四天王筆頭の重臣。徳川家の主要な戦いに参戦して武功を上げてる武将です長篠の戦いでは別動隊を率い鳶ヶ巣砦を陥落させ、勝頼の
白川通りから知恩院へ向かうため華頂通りへ https://goo.gl/maps/n2HnfhkExxr 知恩院までの通りには浄土宗系の学校法人が経営する京都華頂大学や知恩院の塔頭が並んでいます。 松風天満宮(松宿院)御由緒 寛永年間、知恩院第三十二世松風霊厳大僧正は
地下鉄東山駅から徒歩5分程https://goo.gl/maps/2TR5cUPoDG12 京都には光秀公が埋葬されたと伝わる場所が何個かありますがその一つです^^明智塚 天王山と戦いに敗れた明智光秀は近江坂本に逃れようとする途中、小栗栖で落ち武者狩りに合い命を落とす、
休日に東山近辺を散歩しました地下鉄東山駅から徒歩5分ほどの所にある白川に架かっている装飾も何もない一本橋です。テレビドラマでも時々つかわれてますね 一本橋(行者橋)の由来比叡山の阿闍梨修行で千日回峰行を終えた行者が、粟田口の