夕食時間になっても俺の心は晴れず、ハシが進まなかった。それを見ていた祖母が『どしたんなら?ハラでも痛いんか?』といぶかしみ、『食が進んどらんがな』と聞いて来た。母は『お母さん、ほっときなせぃ!あんまり食べんほうがデブにならんけん、ええんです
その事件をサカイに母の態度が変わった。それまでは、祖父こそ亡くなっていたが、祖母や智子叔母が、今まで通りに、俺を甘やかそうとしても、苦笑いでみているだけだったのを、きつく戒めるようになった。母の意見の方が正しかったのだから、父も、祖母も、そ
それは祖父が亡くなった翌年の秋の事だった。間近にひかえた体育祭の練習にクラスメートのほとんどは参加しており、大学を出たばかりの若手の女性担任教師は声を嗄して、指導にいそしんでいた。そんなクラスメートを後目に俺はひとり読書にふけっていた。身体
家に帰った俺は、母に、かっさんに峻拒された事を打ち明ける事ができなかった。母の『おようはんまでに宿題しなせいよ』と言う言葉に生返事をすると、俺は自室に入った。背中に母の『返事をしなせぃ』という声が聞こえた。脇からはずしたランドセルを、俺は、
夏が終わったと思ったら、早いもので、来年の日記が、売り出されていた。俺は、昭和58年から、一日も欠かさず日記を書き続けているのだが、昨日は、34冊目になる日記を購入した。古い日記をひもとけば、1988年3月31日、父が亡くなった日の事も、19
ある書評冊子を読んでいると、原幹恵という女優が、山本周五郎の短篇を、「見知らぬ言葉が多くて、筋は頭へ入ってもあまり面白くおもえなかった。」 と、評し、最後を、「英会話を、習い始めるつもり」で、しめていた。山本周五郎と言えば、昭和中期から現代に
ひとっさんから思いもかけない事を言われた俺は驚いてしまい、思わず、身を乗り出すような姿勢になり『何でぃ、かっさんが何言うとったん』と詰め寄って行った。その時の俺は、ひとっさんのお母さんであるかっさんの事を『おばちゃん』とか『お母さん』と呼ば