時間の都合で第5章まで観てストップしていた『ドッグヴィル』、第六章から後を観る。映画オタクのカラックスはジャンルにこだわる(けれど物語らない)けれど、フォントリアーはジャンルではなく説話にこだわる。とても説話的。とても優しかった人たちがやが
かつて巴里に行ったとき、相変わらずのキタナイ格好のせいかコイン入れて入れるトイレに入ったら、ホームレスの方から住処を獲られたのかと思われたのか、ドンドンとドアを叩かれ出てこい呼ばわりされたり、地下鉄ではその通路、皆に訴えるかのように大便をし
例えは古いが(或いは、現代映画と距離がありすぎるだろうか)、『禁じられた遊び』の恐怖感が教訓話としてあるのに比し、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』の恐怖感はより近いものとして表される。それはシネマヴェリテによって成されるからだけなのではなく、
このころに漸くヌーヴェルヴァーグからの呪縛が解かれた、というよりは寧ろ、それも取り入れたナンデモアリが始まったように思えるのである。そしてモチロン、それがゴダールになることもルイドフュネスすることなく、極めてアンチポンピドーしているところが
『奇跡の海』は物語っていたけれど『汚れた血』は物語ろうとしていない。『奇跡の海』のシネマヴェリテなものは、ドグマ95をはじめたこともあろうが、あの物語を表すにあたって最良のメソッドだったから選択されたのであろうけれど、フォントリアーはなにより
一度観ているからか、以前観たときに感じたと記憶するショッキングはなかった。フォントリアーに感じる皮肉めいた姿勢も感じることもなかった(先入観で抱くほど皮肉めいたこと描く作家ではないのではないのかな)。純粋である。ドグマやサイエンスやリージョ
ロッセリーニとジーハーベルグのドイツをミクスチャーしたようなヨーロッパ、ドグマ95以降のものに比し、とても形式主義にみえるが、この頃のフォントリアーの傾向と重ねポストウォーの動向も知りたい感じがある。ハナシ的にはナルシストの自己陶酔的大暴れの
ポンヌフは やはりすごすぎ カラックスかな 夏井いつき先生は、どう評価してくれるだろうか。フォントリアー ざわめく海が 奇跡うむ やすみ りえ先生は、どう評価してくれるだろうか。ブニュエル、ポランスキー、ドゥミのころとテシネ、ガ
ふたりとも同世代、同時代を歩んだ者たち。彼女たちの性の異常な遍歴、ちょっとビョーキかも、さにあらず。故郷喪失した者たちはその表現、安住を拒むのである。 マルグリット・デュラス インディア・ソング
91年とはカウントダウンがはじまった年のようにも思える。さて、なんに向けてのカウントダウンなのかは分からないけれど。 Kafka (Steven Soderbergh, 1991) Europa (Lars von Trier, 1991) Les
レオスカラックスをおもうとき、ハルハートリーやアレックスコックスを思い出す。やれてるのだろうか。己の道をマッシグラしているのだろう。作風まえのと少し違ってきているけれど。いや、彼らのスタイル、マッシグラである。 Meanwh
NY系の映画雑誌をみると、オリヴィエ・アサヤスとクレール・ドゥニの名前がやたらと載っており、なんで数多いるフランスの監督のなかから彼らなのかと思ったりするけれど。他のヒトより作品は多く公開されていることもあろう。日本ではどうなんだろう。関心
最初観たときはこれみよがしの映画愛に、なにも新しさを感じなかった。今回はなにかオモシロさを感じた。『ドッグヴィル』と同じように構造をスケルトンにアピールする、ホーリーモーリー!『ホーリー・モーターズ』、シネマは動きであり、実存であり、マシー
オリエント急行をはじめて観たけれど、モンタージュも人を捉えていく紡ぎ方じゃないし、ルメットのタッチじゃないなと思っていたら、メイキング観ると、これはドキュメンタリーみたいに見せるのではなく、洋服も仕立てたばっかりのように豪華にみせたり、これ
時間の都合で第5章まで観る。後々が愉しみであるドッグヴィル。かつて観たけど全く覚えていない。各章がテレビドラマの1エピソードにも見えるけれど、いまのところは、カルピス劇場でいえば、主人公の幸福な時期。そういえばカルピス劇場に表される西洋もま
短編も長編もキャリアのスタート的には同じであるが、カラックスとフォントリアー、奇跡の海による英語圏への拡大とドグマ95による制作メソッドで、それ以後からフォントリアーは作品制作のペースがジャンジャカとスピードアップしたように思える。どの期間か
With the international success of Breaking the Waves (1996) and Dancer in the Dark (2000), Lars von Trier has established himself as a one of the most provocative and daring film directors working today. The founding father of Dogma 95, he
私の記憶が正しければ、かつてのカルピス劇場のように、愉しい生活の前ふりが終わったあとに、慈愛に向けて意思を表す女性が表される。ドクサと慈愛の狭間で傷つきながら恩寵を得る。無関心や冒涜を浴びせる人々と、彼女が違うところにいるのではない、抽出さ
かつて、知り合いの日本語ペラペラのフランス人が、日本にやって来たら、レオスカラックスが日本で物凄く人気者なことにかなり驚いていたけれど、そう言えば、もっと年長のフランス人の方が40年以上前に日本にやって来たときに、ノストラダムスが日本じゅうで
『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』 記憶を紡ぐセンスがある。子供の頃の彼女の記憶、ソウ・ゲレラが彼女を助けるところ、その反復、父の記憶。シリーズの一番最初につくられたスターウォーズの直前のハナシ、そこに繋がるような、かつてこうし
『ゴースト・イン・ザ・シェル』 なんだかビルヴィオラも影響を受けた日本人の精神世界から、より分かり易く、自分探しの旅から自我の芽生え、あっちの精神世界に行くのではなくこの生きる身体が在る世界に踏みとどまり生きる、そして精神/身体の二元論的な
『さよなら、さよならハリウッド』でウディアレンはスピルバーグとワインスタイン兄弟は安息日には働かない、というジョークを言っていたっけ。90年代はドリームワークスとミラマックスは壮絶なキャンペーン戦争を繰り広げたらしいが、ワインスタイン・カンパ
ソニマージュ印象的にヴァネッサビークロフトしていて、やなぎみわしていて、北欧家具デザインしているセンスである。そうしたセンスのなか、カルバニズムやネクロフィリアやエクソシストが湧き起る。モデル業界は強い意志持ってなきゃサバイバルできへんのや
スウィート17モンスター、おもしろかった。この邦題より原題の方がいいのは勿論なんだけれど、原題でも日本ではそのまま通じると思うのだけれど。むしろ原題の方がオーディエンスには入っていくのではと思う。最後の方、素直になるけど、そこらへん、ウディア
『マッドマックス/サンダードーム』である。 バータータウンのところはグレースジョーンズとマックスヘッドルームとフランキーゴーズトゥハリウッドなビザール感覚、その後の子供たちとの出会いからはアンブリンしているセンス。レコードが回って声を聴かせ
ゴールデンで陛下の番組が増えていてなんとなくゴールデンに感じるが、病院で読む女性自身の記事を見ているような気もする。生涯だと激務だから大変だと思う。安堵が時節に合っているのか分からないが、元号としていいと思う。安堵にはラブがある。あの雑誌の
松竹錠ネトサポ虎嫌いさんがロボコップと同時代的な出来事でヒップホップを言ってきてくださったが、そうか、アフリカンバンバータやTR-808や映画のワイルドスタイルもまたエイティーズに出てきて、より広い層にアピールしてきたのもこの時代だったなと、そう
フルムーンを見ていると、やはりこの作品は観なきゃいけないと、天からミッションが降ってくる。月はやはり人を誘惑するものである。
バーバラスタフォード著のヴィジュアルアナロジーをちらほらみると、なるほどそうだったのか、と思うことないけど、アナロジーを紡ぐ協和の形象がバラバラにされて、アレゴリーの積層するグロテスクとなった、とか、古代からアーリーモダン期までずっとアナロ