石原莞爾は自ら戦争犯罪人であることを公言し、極東軍事裁判に対しても、たえず戦争犯罪人になろうと努力していました。このことは多くの人々が、戦争犯罪人にされまいとして、何とか逃れよう、逃れようとしていた事とは全く正反対の行動です。結局、石原莞爾
対ソ戦略について、石原莞爾は、日本の満蒙領有実施の際、ソ連が日本の北満占領に対して、軍事的に介入してくる可能性は低いと判断していました。革命後の混乱による国力疲弊と国際的孤立により、軍事介入は困難とみていたからです。そして、もし対ソ戦となっ
石原莞爾平和思想研究会の前会長に植田さんという90歳の先生がいます。植田前会長は90歳を超えているのですが、いつも凛としていて、若々しく、とてもその年齢には見えません。それに、いかにも上品な方です。植田前会長のよさは、どこから出てくるのだろう
1944年東條内閣の倒閣前に、東條英機を暗殺する計画がありました。石原莞爾もその計画に絡んでいたという疑いをかけられました。その理由のひとつとして東亜連盟協会には武道家が多い。極真会館創始者大山倍達氏や戸辺栄一郎氏も日夜空手の稽古をしていました
「戦闘単位が個人で戦闘の量が国家だということは、国民の戦闘力すべてを使うことになる。老若男女どころか国土全部が戦争に巻き込まれる。航空戦が中心になるが、爆撃目標になるのは軍隊ではなく、もっとも弱い部分である。無着陸で地球を何周もできる航空機
石原莞爾が、新聞記者に『閣下は東條参謀長とは対立しているようですが』と言われた時に、『対立ですか、それは可笑しい。私には思想があるが、東條には思想がない。だから対立するわけがないじゃないか』と言ったのを私は父から聞いている。東條英機は努力家
威嚇によって中国本土を政治的に指導することが困難で、中国を武力占領する場合について、石原莞爾のいう「政治指導」は、軍事占領を含むさまざまなレベルの方法によるものと考えられていました。石原莞爾は中国について、「軍閥、学匪、政商」の跋扈(ばっこ
「生存の道断」時は8月6日、日本晴の夏空に突如、魔のような光がきらめいて、山陽の大都会広島の街は一瞬に死の原野と化してしまった。続いて9日オランダ情緒豊かな長崎もまた同様の憂き目にあった。原子爆弾の威力は日本人の頭上に試みられたのである。よろ
外食や中食(弁当や惣菜などを買ってきて家で食べること)産業で使用されているお米は、一部、国産米も使用されていますけど、極端に安い中国産米がほとんどです。「うちは中国産米を会社として使っています」と表明しているファストフードの牛丼チェーンもあり
宝島社から出版されている「満州国を作った男」として石原莞爾はインタビューの中で、占領論から、独立論に変わった理由を次のように述べています。抜粋しますと「その第一の理由は、中国人の政治能力に対する従来の懐柔が、再び中国人にも政治の能力ありとす
革新は社会進歩のために不可避ですが、その犠牲は悲しむべきです。恒久平和の時代となれば社会は不断に生成発展を遂げるでしょう。革新の原因である社会の固定は指導者の固定にあり、革新なき時代を招来するには、指導的地位にあるが者が常により優れた者に譲
インドネシアには、すごく日本語の上手な方が多々います。日本の子供たちが話せないような丁寧語や敬語を流暢に使います。その方たちは、戦争中、留学生として日本へ来ていました。日本は、白人の占領地だった若者たちを日本へ招いて勉強させ、日本精神をたた
農工一体とは都市の解体と農村です。都市解体は国土計画の立場から国家の計画すべき最も重要な問題ですが、急速にこれを期待する現状では、自らがこれを研究し準備することが農村人の責務です。その農村が都市人口を収容できるか、いかにしてこれを行うべきか
年末に長時間で東条英機が取り上げられている番組を放送していた。東条英機とまったく対照的な人物が石原莞爾である。石原莞爾に対しては東条英機同様に様々な批判があり、全く評価しない人たちもいます。満州事変はその後の支那事変・太平洋戦争に至る、「15
近代文明は都市を母体としこれを中心とするものであったが、都市はいよいよ膨張の一途をたどって止まることを知らない。生産は極度に集中した大規模工業に依存し、他のあらゆる文明の集中現象と相まって、文化の偏在、都市と農村の格差は深刻を極め、農村は日