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日記一覧

日清戦争(19)
2016年07月31日10:01

旅順虐殺事件がなぜ起こったか?については、2つの原因があると言われる。一つ目は、土城子で清軍に捕らえられた偵察兵の惨殺死体が、市内各地に「展示」されていたこと。これは中国では古代から行われていることだが、これが日本兵の怒りを買った。もう一つ

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日清戦争(18)
2016年07月30日07:25

旅順という街は天然の良港であるが、もともとは一漁村でしかなかった。しかし清が北洋艦隊を創設した際、基地として旅順を選定したことから、ここに街が作られた。つまり純粋に軍事目的で作られた都市であり、都市そのものが要塞化されている。なのでなかなか

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日清戦争(17)
2016年07月29日07:08

さて朝鮮半島から、清国領土南満州へと攻め込んでいたのと同じ時期、別の部隊が違う方面から攻め込んでいた。朝鮮半島からの北上組を第一軍、こちらを第二軍という。第二軍は清北洋艦隊の基地港・旅順のある遼東半島に海路で上陸しで旅順を攻略。というのが目

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日清戦争(16)
2016年07月28日07:21

日本軍を襲った大敵、それは「脚気」であった。脚気は江戸時代の元禄期以降、江戸を中心に増加し、「江戸わずらい」とも呼ばれた。その原因はこの時期からコメの精白技術が進歩し、江戸などの大都市から「白いコメ」を食べるようになっていったからである。玄

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日清戦争(15)
2016年07月27日08:53

1894年10月、鴨緑江を挟んで南には「何か知らんが、連戦連勝だからこのまま清に攻め込んじまえや!」な日本軍。北には「粘れ。粘ればロシア親分やドイツ親分が来てくれるぞ」な清軍。なのだがしかし。上層部の戦略はそうでも、現場の清軍ははなはだやる

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日清戦争(14)
2016年07月26日07:13

いっぽうの清はどうだったか。清は皇帝による独裁制。その独裁ぶりはヒトラーおじさんなんか裸足で逃げ出すほどである。アジアの多くが易々と欧米植民地になった背景には、苛酷な独裁政治がある。住民たちからしてみれば、この圧政から解放されるのなら、欧米

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日清戦争(13)
2016年07月25日07:42

陸では平壌の戦いで勝利し、海では黄海海戦で勝利。これで朝鮮半島から清軍勢力の完全排除をほぼ達成した。この時点で当初の戦争目的は、達成されている。であればこれ以上戦う必要性は実は無いのだ。それは外野である欧米諸国も感じていたところで、10月2

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日清戦争(12)
2016年07月24日07:12

アームストロング製12センチ速射砲で清艦隊を滅多打ちにする日本艦隊。しかし清側もやられてばかりではない。清の誇る定遠と鎮遠、その30.5センチ砲が火を噴く。そのうち鎮遠の放った1弾が、日本艦隊の旗艦、松島の左舷砲塔に見事命中。砲塔内にあった

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日清戦争(11)
2016年07月23日07:25

西京丸に襲い掛かった3本の魚雷。2本は何とかかわすことに成功した。しかし残り1本は完全に衝突コース、もはやこれまで。と思われたが、その魚雷は艦底の下を通り抜けていった。この当時の魚雷はまだ、深度を自律調整する機構が無かったので、波や潮流の影

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日清戦争(10)
2016年07月22日07:58

敵中に孤立しかけた格好になった扶桑と比叡。清艦隊はまずこの2隻を屠るべく、接近戦を挑んできた。狙いは衝角攻撃である。リッサの海戦でもオーストリア艦隊が衝角攻撃でイタリア艦を沈めている。蒸気船の時代になっても衝角戦術は有効である、というのがこ

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日清戦争(9)
2016年07月21日07:34

清の北洋艦隊は、決戦を避けて戦争を長期戦に持ち込み、外交工作で欧米による介入で停戦にしようというのが戦略だった。しかし兵輸送の帰りに日本艦隊に発見された。ここで会ったが百年目、というやつである。清側の陣容は「定遠」「鎮遠」の二大艦を中心に、

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日清戦争(8)
2016年07月20日07:40

平壌の戦いの結果、朝鮮から清軍を追い出すことに成功した日本軍。朝鮮を取り返したい清は当然また軍を送り込んでくるはずである。送り込む手段は、海路と陸路の2つ。陸路なら北から来るしかない。来る方向がわかっていれば迎え撃ちやすいし、逆に朝鮮から北

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日清戦争(7)
2016年07月19日07:06

平壌の清軍の問題点。まず1つ目はこれは清軍全体に言えることだが、西洋式軍制度を取り入れていないため、隊ごとに装備もまちまち、練度もまちまち、組織形態もまちまち。ナポレオン以降の近代的軍隊とは比較しようも無い、前近代的な軍だった。次に平壌守備

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日清戦争(6)
2016年07月18日08:18

7月29日の成歓の戦いの後、8月1日に日本と清が互いに宣戦布告をした。このとき既に、平壌に向けて清軍が行軍していた。平壌に駐留していた騎兵部隊は、清軍の様子を偵察しつつ南方に引く。8月10日の偵察中に、清軍の部隊と遭遇してしまい、幹部士官が

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日清戦争(5)
2016年07月17日06:47

日清戦争初の陸上戦闘である成歓の戦いは、日本側の勝利に終わった。この戦いで清軍は有利な立場にあったが敗北した。その原因の一つに清軍の大砲が、威力を発揮せずに終わったというのがあった。装備の点では、日本軍が前にも書いたイタリア製を元にした、7

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日清戦争(4)
2016年07月16日06:55

日清戦争において7月25日の豊島沖海戦に続く戦いは陸で起こった。成歓の戦いというものである。この戦いの経緯だが、東学党の乱鎮圧目的で派遣された清軍は、牙山という町に居座っていた。ここに海上輸送で兵力を増強。その輸送団の一部を補足撃破したのが

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日清戦争(3)
2016年07月15日07:32

豊島沖海戦で大問題になったのは、日本が沈めた清兵を載せていた輸送船。この輸送船はイギリス船だったのである。イギリス船を清がチャーターして、兵の輸送に使っていたのだ。大英帝国様の船を勝手に沈めた、ということで大騒ぎになった。当のイギリス本国で

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日清戦争(2)
2016年07月14日07:56

豊島沖海戦というのは、ソウル近郊の仁川港の近くにある豊島の沖で起こったものだ。吉野、秋津洲、浪速の3艦が、清の巡洋艦「済遠」と「広乙」を発見。近づいて行ったところ、いきなり砲撃を受けた。実は済遠と広乙は清の輸送部隊の先行艦で、牙山というとこ

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日清戦争(1)
2016年07月13日07:08

明治日本が外国と始めて戦った戦争が日清戦争である。1894年7月に開戦し、1895年の4月に講和している。約10か月の戦争だった。日露戦争が1年6か月だったからそれよりもだいぶ短い。1883年からの軍拡計画によって軍艦の調達が進んだ。その結

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軍艦史(102)
2016年07月12日09:50

ここまで日清戦争で日本の主力となった艦について書いてきた。最大の艦でも三景艦の4000トン級で、清が持つ定遠と鎮遠の7500トン級2艦を撃沈することは無理だと思われた。実はさすがに日本海軍もそれはわかっていて、1万トン超の大型艦を建造しよう

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軍艦史(101)
2016年07月11日07:28

松島型防護巡洋艦は4隻建造する予定であったが、3隻どまりとなった。艦名がそれぞれ日本三景から取られたものだったため、この3隻を「三景艦」と呼び、日本国民から親しまれた。排水量4278トン、全長92m全幅16mというこの3艦は、その当時の日本

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軍艦史(100)
2016年07月10日11:41

日清戦争前、最後に建造されたのが、防護巡洋艦「吉野」である。イギリスのアームストロング社が建造した、浪速と高千穂のスピード性能が高いものがあったため、日本海軍は同様の防護巡洋艦をアームストロング社に発注した。発注は1891年。浪速と高千穂の

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軍艦史(99)
2016年07月09日07:38

松島型防護巡洋艦は4隻建造する予定だった。4000トンクラスの船体では、巨大な32センチカネー砲は1門しか搭載できない。艦首にカネー砲を搭載した艦を2隻、艦尾にカネー砲を搭載した艦を2隻造り、2隻ずつペアを組んで定遠と鎮遠に立ち向かう、とい

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軍艦史(98)
2016年07月08日06:47

日清戦争に向けた日本の軍備拡張、いよいよ真打の松島型防護巡洋艦、通称「三景艦」である。1880年代後半、もはや清との戦争避け難しと判断した日本政府は、清の北洋水師と制海権を賭けた戦いが起こるのは必定であり、これに勝利しなければ清との戦争には

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軍艦史(97)
2016年07月07日09:13

釜石製鉄所が稼働すると、大砲と軍艦の国産化が同時に進む。明治時代、鉄を大量に使用するものと言えば何と言ってもこの2つ、それと鉄道と言ったところだろう。摩耶型砲艦が国産で初の鉄製艦であったが、今度はより大型の巡洋艦クラスの建造が行われた。18

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軍艦史(96)
2016年07月06日07:05

これまで国産では木製の艦しか建造できてなかった日本だが、ついに鉄製の艦を建造するようになった。それが摩耶型砲艦である。1888年から1890年にかけて完成した。摩耶型砲艦は全部で4隻。1号艦摩耶、2号艦鳥海が1888年完成。3号艦愛宕は18

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軍艦史(95)
2016年07月05日07:25

海運事業で激しい競争を繰り広げていた郵便汽船三菱会社と共同運輸会社が合併、日本郵船となった。日本郵船がまずやったことは、老朽化している船舶の更新だった。イギリスに発注した船は1888年8月に日本に到着。上海への航路に就航した。この船は排水量

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軍艦史(94)
2016年07月04日10:46

軍拡計画によって英仏両国に対し、防護巡洋艦を発注した日本だったが、そのいっぽうで国内でも新艦建造に着手していた。日本海軍の艦隊基地、いわゆる鎮守府は当初横浜の現在でいうところのみなとみらいのあたりにあったのだが、1884年に横須賀に移転して

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軍艦史(93)
2016年07月03日11:22

日本はイギリスに2隻の防護巡洋艦を発注したが、実はもう1隻、こちらはフランスに発注していた。こちらは帆走設備がまだ残されている機帆船だが、防護用装甲版を一部に取り付けてあるれっきとした防護巡洋艦であった。排水量3615トン、全長98m全幅1

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軍艦史(92)
2016年07月02日09:21

エルジック造船所で建造中の新鋭巡洋艦の評判を聞きつけた日本は、早速アームストロング社に「ウチにも造ってくれや〜」と発注した。しかも大奮発して2隻である。こうして同じ型のエルジック・クルーザー2隻が1886年に納入された。この2隻はそれぞれ、

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